「オンリーワン商品開発の秘訣」 | 講演会レポート | 大阪商業大学 総合交流センター

講演会レポート

「オンリーワン商品開発の秘訣」

ハードロック工業株式会社
代表取締役社長
若林 克彦

1本のナットとの出会いがきっかけに

大学を卒業後、バルブの設計会社に入社した。ある日、仕事で出向いた見本市で他社の戻り止めナットに目が留まり、サンプルを一本持ち帰った。「よくできている。でももっと安くて、もっといいものができるのでは」、そんな思いが募った。

板ばねを使って試作品を作ったところ、思った通りに作用した。その後、出願方法を独学で学び特許を取得した。「Uナット」と名付けた。すると、どうしてもUナットを製造、販売したくなった。起業に必要な「人、モノ、金」は何もない。しかしやってみないことには何も始まらない。「なんとかなるだろう」。甘い考えでのスタートだった。

実弟ともう一人の3人で会社を設立。高校の同級生が営むナット工場の機械を、営業後の夜間2~3時間だけ貸してもらい、どうにかサンプルを作った。「絶対緩まない、緩み止めナットの決定版」をキャッチフレーズに、サンプルを問屋へ持っていった。しかし「こんなもの売れるか」と突き返された。何軒も問屋を回るが、対応は同じだった。

給料は払えない。しかし後戻りはできない。営業先を問屋ではなく、製造業など現場ユーザーに変えた。小さい町工場にサンプルを置いて回り、3~4週間後に様子を見に行く。そのまま置いてあるところが多かったが、それでも「種まき」を続けた。

「こないだもらったサンプルをまたくれないか」。ついに待ちに待った声がかかった。昭和40年頃からの省力化、省人化という時代の波の後押しもあり、作業性に優れたUナットがあちこちで使われ始めた。夜間に3人で作るだけでは間に合わなくなり、下請けを申し出てくれた会社とともに増産した。あっという間にどんどん売れ、昭和48年には年商15億円に達した。

神社の鳥居の楔(ルビ:くさび)からヒントを得て

Uナットは「絶対緩まない」がキャッチフレーズだが、どんな強い衝撃にも耐えられるわけではなかった。緩みが出るケースが発生し、苦情が相次いだ。弁償問題にまで発展した。

「絶対緩まないやつを考えないとあかん。Uナットだけではだめだ」。見るもの触れるもの、何かしらヒントにならないかと日夜考えあぐねた。たまたまお参りに行った住吉大社で、鳥居が目に入った。神頼みの気持ちで見ていたからか、普段は見ない楔(ルビ:くさび)が見えた。

楔をボルトナットの隙間に打ち込んだら緩まないだろう。1年かけて、2個のナットを使う「ハードロックナット」を開発。重さや作業性、コスト面における欠点はあるが、絶対緩まないという大きな特徴がある。

このハードロックナット一本に賭ける決意をし、新たに会社を設立。Uナットの事業は協力会社に無償で譲った。

ハードロックナットを1年で定着させようと意気込んだが、簡単にはいかなかった。ハードロックナットの「種まき」を続けた。Uナットの事業は譲ったが、特許を手元に残したことで、Uナットの売り上げ、月商1億2~3千万円の3%の特許料を3年間受け取ることができた。しかしそれでも資金は足りなかった。

銀行に融資を頼んでも、実績がないから断られる。その中で資金稼ぎに役立ったのが、興味半分で特許出願していた日用品の数々だ。中でも、底に角度を付けた卵焼き器は、実演販売で1日2000個売れた。トイレットペーパーを取りやすくしたホルダーも大量に買い上げてもらった。日用品は線香花火のように廃れるのも速かったが、得た利益でハードロックナットの事業を続けることができた。

迷惑を掛けずに自分たちのできる範囲でやればいい。自分たちの力で徐々に大きくしていけばいい。そういうやり方が安全だ。「苦あれば楽あり」。3年間給料なしで、本気でやめることも考えたが、Uナットでの苦労の経験があったからこそ、ピンチの時でもプラス思考になれた。ハードロックナットが浸透するのに3年かかったが、確実に信頼を得ていった。

世界で認められたハードロックナット

ハードロックナットは、現在様々なところで安全を守っている。16両編成の新幹線では約2万個使われており、走行距離100万kmごとに行われる車検で全て新品に取り換えられる。東京スカイツリーでは「100年保証」が採用の条件で、これに適合したのがハードロックナットだけだった。明石海峡大橋でも「100年保証」を条件に選ばれた。楔作用だから摩耗するところがない。緩み止め機能は安定しており、永久に維持される世界最強のナットだ。

マーケットは世界にも広がっている。台湾の新幹線はレール、車両など全てに使用されており、イギリスの国鉄の規格にも採用された。かつては自国の緩み止めを使用し、何度売り込みに行っても門前払いだったが、緩みが原因で起きた悲惨な脱線事故の後、「なぜ早く売り込みに来なかったのか」と呼び出された。BBCが放映した脱線事故のドキュメント番組で、ハードロックナットが大写しされたことがきっかけで、「こういうものが使われていれば事故は起きなかっただろう」と番組は視聴者に訴えていた。

安全性を二の次にしている会社が少なくない。大事故が起きてから反省しても手遅れだ。「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂いなし」、そういうことを企業のトップが考えなければいけないと常々感じている。

ハードロックナットは定着し、今年で世に出てから41年目になる。ハードロックナット以外の事業は一切やっておらず、言うならば「一品料理」だ。おかげで集中力を分散させることなく取り組むことができた。

ハードロックナットより優れた商品が出てきたら競争しなければならないが、まだ存在しない。半世紀まであと9年。50年間はこの「一品料理」で勝負していく覚悟だ。

「人を喜ばせたい」が発明の原点

小学校4年生の時、田舎に疎開した。畑で、おばあさんが大豆の種まきをしている姿が目に入った。10mほど蒔くと、腰がつらいのか背伸びをしていた。「ドラムを作って転がしたら、簡単に種が蒔けるのに」と種まき機を試作したら、大人が実用的なものに作り変えてくれた。そして村中の人が使うようになった。また、筒状の竹でかまどに空気を吹き続ける姿が大変そうだったので、送風機も作った。「もっとこうしたら良くなるだろう」というアイデアを形にすることで、みんなが喜んでくれるのがうれしくて仕方なかった。 人を喜ばせたら、自分にも喜びが回ってくる。子どもの頃からのそんな気持ちが今も続いている。会社では、「自分を満足させようと思ったらまず顧客満足から」「お客様あっての自分たち」を貫いてきた。自己さえ良ければという「利己」ではなく、「利他」の考えに立つ。「利己」だと行き詰まるが、「利他」であれば向上していく。そういうことを朝礼などで社員たちと確認し合っている。

アイデアの源は好奇心だ。こういうふうにしたらいいなという視点をいつも持ち、こういうものができたらみんなが喜んでくれるだろうと想像する。頭の中で考えるだけでなく試作し、添削、付加を繰り返す。

これまでずっとナットに関わってきたが、緩み止めボルトの決定打がまだない。ボルトにはナットの5倍のマーケットがあり、大きな事業になり得る。日本だけでなく世界で勝負できる。私も市場参入を考えているところだ。

いいものを提供したら、いいものが自分に必ず返ってくるという信念のもと、これからも前に進んでいく。

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